藤岡 惇
「想像してごらん 神様なんていないってことを
・・・そしてすべての人が平和に暮らしていることを」
(ジョン・レノン『イマジン』から)
「生きている人だけの世の中じゃないよ。
生きている人の中に死んだ人もいっしょに生きているから、
人間はやさしい気持ちをもつことができるのよ。ふうちゃん。」
(灰谷健次郎『太陽の子』)
「・・・近代科学の実証と求道者の実験とわれらの直観の一致に於いて論じたい。
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。
自我の意識は個人から集団・社会・宇宙と次第に進化する。・・・
正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである。」
(宮沢賢治『農民芸術概論綱要』)
自然―人間中心主義の立場にたつ経済学者のデービッド・コーテンの仕事から私は、多くのことを学んできた。ただし彼の主張のなかには、どうしても同意できない論点が一つあった。唯物論とは「飽くことなく金と物とを求める人間」の自然観、「人生の目的を快楽の追求」「消費すること、買い物をすることだと考える」唯物主義者の世界観だと誤認していることである。3) 「生かされている」ではなく「生きている」と考えている自己中心の人たち、物質的な欲求だけを追求する「俗物」を、コーテンほどの傑物でさえ唯物論者だと誤解しているわけだから、同様の誤った考えをもっている人は少なくないであろう。「唯物論者」と「唯物主義者」とを混同する、このような誤解を解くにはどうしたらよいのか。
2004年11月におこなわれた米国の大統領選挙で、「心の渇き」や「(胎児の)命の尊厳」、「スピリチュアルな価値」の問題から目をそらしてきた白人左翼を批判して、ある黒人活動家は、つぎのように書いた。「もし白人左翼が、生命の誕生と死、生殖といった基本的な人間観の点で、白人の一般民衆と水と油の関係にあるとしたら、経済正義といった政治的課題で共同しようと試みても、民衆が聞く耳をもたなくなる恐れがあります。これにたいして私たち黒人社会では、黒人教会を拠点にスピリチュアルな心の問題と経済正義の実現など政治的課題の双方と取り組んできた伝統をもっています。白人左翼は、この黒人社会の経験から学ぶべきです。道徳や霊的な価値について黒人教会の宗教リーダーたちは、白人の福音主義的右翼とほとんど変わらない見解をもっています。ただし異なる点があるとすれば、わが宗教リーダーたちは、同時に進歩的な政治運動の領域で主導的な役割を果たしてきたことです。」 政治経済的な問題と人間観などの心の問題の双方に取り組んできたこと―これが、黒人票の9割弱を反ブッシュでまとめあげた黒人社会の組織力の秘密だと、この黒人活動家は述べたのである。@@Mark P. Fancher, The Job that White Left won't Accept, The Black Commentator, Issue 114, Nov. 18, 2004.
左翼の唯物論的哲学と「道義的な価値」や「スピリチュアルな価値」とを高い次元で、どのように統合したらよいのだろうか。
他方、今日、進んでいる宇宙観・自然観の革命的な変化は、弁証法的な唯物論哲学を発展させる好機であるが、それに失敗すれば新たな観念論と神秘主義、迷信やオカルトの類を生み出す危険がある。百年前に同様の危機に直面して、レーニンは、こう書いた。「新しい物理学が観念論にまよいこんだのは、・・・物理学者が弁証法を知らなかったからであった。・・・今日の『物理学的』観念論は・・・自然科学者の一学派が、形而上学的唯物論から弁証法的唯物論へまっすぐにすぐさまのぼることができなかったので、反動哲学へ転落したことを意味するにすぎない。・・・現代物理学は産褥にある。それは弁証法的唯物論を産もうとしている」と。@@レーニン『唯物論と経験批判論』邦訳全集版14巻、大月書店、315・378ページ。オウム真理教のようなカルト集団と戦いながら、エコロジー的認識の深まりを、どのように唯物論的な世界観の発展と結びつけていけばいいのだろうか。
「アニミズム」とは何だろうか。「アニマル」(動物)とか、「アニメーション」(動画)といった言葉と同根であり、大自然のなかに生命体としての内在的運動をみる、人間を生かしている「いのちの流れ」の力(カミ)をみる自然観のことだ。アメリカ黒人の非暴力主義運動の研究をへて、いまは原住民の自然力信仰を研究されている歴史家の中島和子さんは、こう書いている。「『神』という言葉は、日本文化のなかで独特の意味をもっています。日本語の元の意味によりますと、神の『カ』には「隠れた」という意味があります。『目に見えない』『不可視的』という意味で、『ミ』は『生命体』です。つまり『カミ』とは「目に見えない生命体」のことで、それは、太陽や月、雷や嵐のみならずこの大宇宙に満ち満ちている生成発展のエネルギーを意味するのです。・・・人間は『肉体もてる生命体』で、可視的存在です。しかし死ねば『目に見えない生命体』すなわち『カミ』となります」と。8)
それでは「いのち」(生命体)とは何だろうか。話は、一三七億年前といわれるビッグバン直後にとぶ。当時の宇宙には、もっとも単純な元素――水素とヘリウムしか形成されていなかった。核融合を起こして、より複雑な元素をつくりだすためには、大変な高熱が必要だったからだ(水素爆弾の核融合反応に点火するには、原子爆弾の爆発熱が必要だったことを思い起こしてほしい)。
軽いガスで出来た原始星は、内部で核融合反応をおこし、しだいに炭素・鉄といった重い元素を合成し、一生を終えるときに重い元素を含んだガスを放出する。このような固体元素が集まって、第二世代の重く大きな星が形成される。この種の星の最後は、すさまじい「超新星爆発」となるが、そのときに発生する異常な高熱のおかげで、鉄よりも重くて複雑な原子核をもつ元素(金や銀など)が生みだされた。わが身を犠牲にした星たちの大爆発――このすさまじい「宇宙の陣痛」のなかから、私たちの体を形づくる元素が生みだされた。じっさい私たちの体の元素組成比は、超新星爆発直後の元素の組成比とほぼ同じだといわれる。「君たちは、星の大爆発のおかげで産まれたのだよ」9)と天文学者が説くのには根拠があるのだ。
今から三六億年近くまえ、地球の「原始の海」のなかに最初の生命体が現れた。私たちは胎児の時には、母親の子宮をみたす羊水のなかに浮かんでいるが、その羊水の成分は、じつは三六億年前の「原始の海」の成分と同じだという。10) 生命体誕生から二六億年の間は、細胞分裂という無性生殖が繁殖の唯一の方法であった。そこには個体の死は存在しなかった。細胞分裂にもとづく「永遠の生」を生物たちは満喫していた。およそ一〇億年前に多細胞生物が出現し、雄と雌とが互いのDNA(遺伝子コード)を交じり合わせ、子を生みだすという有性生殖が本格化し、そのときに個体の死が始まった。 高等生物たちは、セックスの歓びを味わう代償として、死の恐怖を味わうようになったのである。11)
有性生殖の積み重ねのなかで、子孫に引き継がれるDNAは高度で複雑なものとなり、その最高の精華として人類が誕生する。生物の進化の歩みを手で表したばあい、その最先端の指先のところに「自然が自分自身の意識にまで到達している存在」たる「万物の霊長」=人間が生み出されたのである。
一人の人間のなかには七五兆の細胞が活動し、癌細胞を例外として、すべての細胞が協力しあって人体の健康を創っている。心臓は、一日に八万回鼓動し、全長一五・四万キロ―地球を四周する長さの血管に毎日二・四万リットルの血液を送り出している。よく生物学者は、「人間とは三六億年のDNAだ」と述べるが、12) 一人の中に含まれるDNAの鎖の総延長は、一二八〇億キロ―地球と太陽との間を四百回往復する長さになる。私たち一人ひとりの「いのち」のなかに宇宙があるというか、宇宙の進化が凝縮されているのだ。13)
「いのち」は、なぜ尊いのだろうか。わけても人間の「いのち」は、なぜ尊いのか。七五兆の細胞が、一二八〇億キロのDNAに導かれて精妙な協同活動を行い、自らの力で宇宙の最高の精華としての光を発しているからではないか。宇宙自体が自らの姿を捉えるために「宇宙の眼や耳」にあたる存在を、ついに創りだした―その「眼や耳」にあたる存在が私たちだからだ。私たち一人ひとりが、一三七億年の歳月をかけて、宇宙自身が腹を痛めて作り上げてきた最高の傑作であり、生きているだけで無条件に尊い存在だ。この真実を魂の深層で納得している人は、もはや兵士となって人を殺すことはできないだろう。14)
科学的社会主義の創始者の一人たるフリードリッヒ・エンゲルスは、このプロセスを説明して、つぎのように述べたことがある。宇宙の物質進化は「自然がついに自分自身の意識にまで到達している存在」たる高等動物を生み出した。「物質がどんなに変転しても永久に物質でありつづけ、その属性のどの一つも失われることはありえない。またそれゆえ、物質系は、地球上でその最高の精華たる「思考する精神」を生み出した後に、消滅させてしまうこともあろうが、そのばあいでも、鉄の必然性をもって、この思考する精神をいずれかの場所、いずれかの時に再び生み出すにちがいない。」「われわれは肉と脳髄ごと自然のものであり・・・人間はますます自分が自然と一体であるということを感ずるようになる。」その結果、「あの精神と物質、人間と自然、魂と肉体との対立という不合理で反自然的な観念は、ますます不可能になっていくであろう」と。15) エンゲルスは、不毛な二元論を超えて、物質が精神を生み出し、自然が人間を生み出し、肉体が魂を生み出したことを率直に認めよ、と説いている。
人工的に合成された元素を除くと、宇宙には、どこまでいっても水素からウラニウムまでの九二の元素とその組合せとしての分子以外の物質は存在しないし、光の速さよりも早く伝わる運動も存在しない。死後の世界にも「霊」が残り、生きている人にたいして「祟り」(たたり)を及ぼすといったことは起こりようがない。かりに「超自然的な存在」が、宇宙の果てからメッセージを送ってきたとしても、一三七億年たたないかぎり、その「意思」は私たちに伝わりようがない。何か「霊的な存在」(神)が宇宙の外から私たちを操ることで、宇宙の進化発展が進んできたのではない。そうではなく、宇宙の物質系自体が、より複雑で個性的なものに進化発展するパワー、「自己組織化」するパワーを内包しているのだ。16) 自然主体的な唯物論、あるいは唯物論的な「アニミズム(自然の弁証法)」にもとづく哲学を築いていくことは火急の課題だと考える。17)
原始的なアニミズム(自然信仰)の系譜をひく宗教――たとえば仏教は、神(人格神)を否定している。このようなアニミズム型の宗教と「唯物論的なアニミズム」との間には、どのような哲学的な差異が存在するのか、対話をつみかさねていきたいと思う。意外と「紙一重の違い」しかないのではあるまいか。
たとえば、近藤正輝さんによれば、釈迦は宇宙の創造主を否定していたという。曰く―「如来が世に出る前から宇宙はあり、世の中はあり、ひとつの法則にもとづいて営みとしてきた。・・・ただ如来は、この宇宙の営み・法則・ダルマを知っていただけ・・・。」
「仏陀も一個の人間であり、・・・この意味で仏教は有神論的体系の宗教ではない。神を立てない宗教」なのだ。司馬遼太郎の仏教論などをひきつつ、近藤さんは、こう結論する。「神も仏も超えた、・・・ついていけないほど高度の無神論」――これこそが仏教の本質だ、と。18)
生命科学者の柳澤桂子さんも、同様に人間の人格的な成長が進み、宇宙意識をもった文化人のレベルに発達すると、その人の宗教観は自然と「人格神を超越する」ようになり、いわば「自然信仰のアニミズム的世界観」が高次復活してくるようになると述べている。19)
わたしは、大学で「アメリカ経済論」や「平和の経済学」といった科目の講義をおこなっているが、「宇宙において人間(私)は、どのような位置を占め、どのような価値を有し、どのような義務(使命)を担った存在なのか」を考えてもらうことから、講義を始めることにしている。
ことしは、まず受講生につぎの文章(『モリー先生の最終講義』の最後の一節)を提示した。「小さな雄波が砂浜の沖の大洋で、飛び上がり、飛び下がりしながら楽しんでいました。突然に雄波は、自分がやがて砂浜に砕け散るだろうと悟りました。この広い大洋のなかを、彼は今や砂浜めがけて進んでおり、まもなくそこでなくなるでしょう。『こりゃいかん、俺はどうなるんだ?』と雄波は渋い、暗い表情でつぶやきました。そこへ同じように、飛び上がり、飛び下がりしながら楽しんでいる雌波がやってきました。雌波が雄波に言いました。『なんでそんなにしょげているの?』雄波は『わかっちゃいないんだな。君はあの砂浜で砕け散って、おしまいになるんだよ』と答えました。すると雌波が、『あなたこそわかっちゃいないんだわ。あなたは波じゃないわ。大洋の一部よ』と言い返しました」。20)
この一節を読んで、「あなたは雌波派に近いですか、それとも雄波派に近いですか」という問題に解答してもらうのである。もとより、この種の問題には定まった正解があるわけではない。単一の答えに収束せず、どんどんと拡散していくので、死ぬ直前に、自己の「ライフヒストリー」を書くことで解答に変える以外にはないような問題なのだ。とはいえ一生をかけて正解を模索していく値打ちのある問題であることも確かである。21) 解答にかける受講生の意気込みをみていると、そのことがよく分かる。解答をみると「自分は今のところ雄波派だが、死ぬまでには視野を広げて雌波派に変わりたい」という希望を表明する学生が、最近は多い。
どちらかというと男性には雄波派が多く、女性には雌波派が多いという傾向がある。なぜそうなるのか。「いのちを生み出す女性原理」の所産かどうかは判断を留保するとして、22) 社会的性差(ジェンダー)が大きな役割を果たしていることは間違いがないであろう。赤ん坊や子どもというのは、人間のなかでも一番自然に近い存在であるが、女性のばあい、このような「自然人」とつきあい、対話する機会を多くもつからである。
「雌波派のような人間観にたつと、全体が個に優先する全体主義的な社会を作ってしまうのではないか」という警戒心を表明する学生もいる。旧ソ連や北朝鮮型の全体主義的な社会体質に辟易(へきえき)している人に多い意見である。
このような意見には、私はつぎのようにコメントする。雌波派には、じつは2つの異なるタイプがあり、両者を区別する必要があると述べて、まずは尊敬する友人――サティシュ・クマールの「3つのミレニアム(千年紀)論」を紹介するのだ。
サティシュは、若いころ、ジャイナ教徒として、単身・徒歩・無一物で平和巡礼を行い、1万キロに及ぶ旅を介して米ソ首脳に核兵器を捨てるように説いてまわったインド人。その後英国南西部のデボンシャーの地に、美しいシューマッハ・カレッジを創った人だ。23)
1999年秋に彼は、立命館大学に来て、新しい千年紀の意味について次のように語ってくれた。
すなわち、キリスト誕生から最初の千年紀の間、とくに欧州では人間の生命と能力とは、全能の人格神に帰属しているとみなされていた。人間はいわば外部の全能者にかしづく下僕となり、「神のミレニアム」といってよい千年間だった。
第2のミレニアムに入ると、「神の専制」への反発から人間復興運動がおこり、しだいに人間が神にとってかわるようになった。人間は自らを自然環境の外におき、自然を征服と支配の対象だと考えるようになった。その結果第2の千年紀は、しだいに「人間のミレニアム」という色彩を濃くしていき、自己(自分の脳)を中心として世界が回っているという天動説的な観念論の考えに染まるようになった。自我のエゴ化と精神病理の蔓延(まんえん)、核戦争、地球環境の危機が、その帰結であった。
第3のミレニアムの課題とは何か。あらゆる生命が輝かないかぎりは人間の生命も輝けない世紀、万物の霊長にふさわしく「高貴なものには義務が宿る(ノブレス・オブリージ)」という倫理に目覚め、地球環境全体をケアする義務を引き受ける世紀になることではないか。「神のミレニアム」と「人間のミレニアム」双方の弱点を止揚した「自然のミレニアム」への転換こそが望ましいのだ、と。24)
2004年の1月に、インドのムンバイで開かれた第4回世界社会フォーラムに行ったとき、サティシュの新しい本をみつけた。『君あり、ゆえに我あり』(You are, Therefore I am)というタイトルの本だ。サティシュの本は、尾関修さん父子の手で2005年に翻訳されました。『君あり、故に我あり』講談社学術文庫で、なかなかの名訳です)。
この本のなかで彼は、各ミレニアムに支配的となる人間観をあとづけ、持論をいっそう展開している。
「神のミレニアム」というのは、いわば「垂直型の雌波」の時代である。「あなたいる、ゆえに我あり」という人間観が支配的となるが、その際の「あなた」とは、全能の人格神ないし神に匹敵する独裁者だけ。わたし(我)との関係は、どうしてもトップ・ダウン型となる。「依存宣言」(declaration of dependence)の時代だといってよい。
第2の「人間のミレニアム」の時代というのは、雄波の時代だ。絶対的支配者からの「独立宣言」(declaration of independence)が発せられ、「我思う、ゆえに我あり」(I think, Therefore I am)原理を掲げるデ・カルト主義が王位に就く。人間が自然を支配し、人間の中では脳が身体を支配するという「唯脳論」(養老孟司)が猛威をふるい、人間(=個人脳)中心の天動説的な観念論が支配的な哲学となる。
それでは来るべき第3の「自然のミレニアム」にふさわしい人間観・自然観とは、いかなるものか。第2のミレニアムのなかで確立された個人的自立の条件をひきついだ「水平型の雌波社会」、「あなたいる、ゆえに我あり」原理を高次復活させる時代となるべきだと、サティシュは説く。第1のミレニアムの時代とは異なり、「あなた」は、もはや人格神や絶対的独裁者ではなく、人類・地球・自然を包括する「大自然と社会」全体に拡張される。その結果、わたしとあなたの関係は、水平的なものに変わっていく。「相互依存の宣言」(declaration of interdependence)の時代がやってくるのだ。25)
それでは、ソ連や北朝鮮のような「奇怪な形相をもつ全体主義」社会はなぜ生まれたのか。第2の千年紀の「雄波社会」から離脱・超克しようとして無理な軍事的努力を重ねたために、第3の「水平型の雌波社会」に向かうことができなくなり、逆に第1の「垂直型の雌波社会」のほうに退行していったからだ―これが、この問いにたいする私なりの答えである。人間の尊厳を支える生存権を個人レベルで無条件に保障することが、個人の市民的自立の基盤を固め、このような退行を防ぎ、「水平型の雌波社会」にむけて人類社会を前進させていくカギであった。しかし現実には「スターリンや将軍さまへ無条件的忠誠」を誓う人にだけ、忠誠に対する恩恵=特権として、生存権があたえられたからである。
生存権を無条件に保障するためには何が必要か。①生存のために最低限必要な貨幣所得を個人単位に無条件に保障する「市民所得保障制度」を創設し、市民的自立の基盤を強める、②個々人に再び「母なる大地」に回帰する権利を保障し、希望者には食料自給を可能にする「家庭菜園づくり」の権利を与える、というのが現時点でのわたしの解答である。自然と社会・祖先から受け取る無償の「愛のパワー」が先にあってこそ、人間の心身に感謝のエネルギーが生まれるのであり、報恩の念にもとづくボランティア活動に火が付くのであろう。またその結果、損得の経済原理の範囲を超えて、正邪の原理にもとづいて行動する人が増え、「市民」「文化人」「変革主体」という立場に立って行動する人が増えてくるのではないだろうか。26)
一九四七年のインド。そこでは英国からの独立を目前にして、イスラム教徒とヒンズー教徒間の積年の怨念が火を噴き、独立後の国のかたちをめぐって凄惨な内戦が始まっていた。いっさいの暴力の停止を求めて、マハトマ・ガンジーは単身で無期限の断食に入った。ある日彼のもとに、イスラム教徒を殺したというヒンズー教徒の男が訪れ、殺人を犯した自分にも救いの道があるのかと問うた。ガンジーは、その男にこう答えた。「救いの道がひとつだけあります。イスラム教徒の孤児をあなたの養子にするのです。ただしその子どもはイスラム教徒として育てねばなりません」と。孤児の本来性の尊重こそが、健康な親子関係を紡ぎだすための前提だとガンジーは説いたのである。27)
二〇〇一年九月一一日のニューヨーク。そこでは凄惨な同時多発テロ事件が起きた。犠牲者の家族の一部は「平和な明日のための遺族の会」をつくった。アフガン・イラクの地を訪れ、米軍の攻撃の犠牲者遺族を弔問する旅、痛みと悲しみを分かちあい、憎悪と暴力の悪循環を克服する旅を彼らは続けている。28)
非暴力主義には、二つのタイプがあると、かつてマハトマ・ガンジーが語ったことがある。「弱者(臆病者)の非暴力」と「勇者(強者)の非暴力」がそれである。29) 「弱者の非暴力」は臆病者による現状追随にすぎず、現状を変革する力に乏しいので、この域に留まっている限りは、現状変革を望む勇気ある若者たちを暴力主義の道に誘うだけであろう。「勇者の非暴力」の闘いをじっさいに展開し、この種の闘いの方が目的を達成する上で暴力的手段に訴えるより効果的であることを実例の力で示していく以外には、暴力主義的傾向を克服することはできない。「勇者の非暴力」の闘いとは、①相手の暴力的弾圧を誘発しにくい分野――たとえば経済・社会・文化の分野での非暴力の戦いを重視することであり、②仮に相手が暴力的な弾圧をしかけてきたときも、相手を傷つけず、相手に敬意を払い、相手と傍観者の良心に訴えかけようとする。
「勇者の非暴力」を担う人たちの勇気と知恵とを育んでいくには、どうしたらよいのだろうか。社会的経済的システムの問題は重要だが、この点は、先に論じたことがあるので、割愛する。30) ここでは、ミクロの範囲で可能なしくみに限って、考えてみたい。
ミヒャエル・エンデの『モモ』という童話を読まれたことがあるだろうか。「灰色の紳士たる時間どろぼう」と闘い、盗まれた時間を人間にとりかえしてくれた不思議な女の子――モモの物語だ。「灰色の紳士」とは、「経済人」を人格化したもの。同じ自己実現という言葉を使っても、「灰色の紳士」にとっての「自己実現」とモモにとっての「自己実現」とは、大きく異なる。前者にとっての実現すべき「自己」とは何か。それは、手(社会)と身体(自然)から切断された指先であり、ビリヤードの球(経済人)にすぎず、いのちのない、中身のない「自己」である。したがってこのような「自己」を実現しようとする内発的なエネルギーは生まれてこない。他人(ボス)からの評価(裁き)と競争から脱落するという恐怖心だけが動力源となる。ビジネス書で説かれる「自己実現」とは、このような内容のない、死に物の「自己」実現であることが多い。
これにたいしてモモのばあいの実現すべき「自己」とは何か。「自己」とは、指先のちっぽけな存在だとしても、手・身体・大地とつながった躍動する生命体の一部である。指先(自我)は身体と結びついており、身体は、土台としての家族と「バイオ・リージョン」(人間と生物・非生物がともに作り上げる生命循環系の地域」)に根ざしている。31)
モモのような生命力の豊かな子どものばあい、「自己」の範囲は、成長につれて自然と拡張していくものである。米国の未来学者のヘーゼル・ヘンダーソンの作成した次の図をみていただきたい。
赤ん坊から幼児の時代には、自己利益にかかわる「自己」の範囲は、文字通り本人一人だけだ。要求を貫くために、あたりかまわず泣き叫ぶ赤ん坊の姿を思い浮かべてほしい。通常の人のばあい少年期になると、家族が「自己」利益の範囲に入ってくる。青年期になると、「自己」の範囲がコミュニティや企業団体まで広がってくる。成熟期に入ると、民族や国家まで「自己」の範囲に入り始める。さらに視野が広い人のばあいは、動植物や死んだ人、未来世代、地球の運命までが「自己」のなかに入ってくるだろう。「地球市民」から「宇宙市民」への「自己」の拡張を論じる彼女の議論は、「正しく強く生きるとは、銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」とうたう宮沢賢治の境地と通底している。
これにたいして新古典派経済学というのは、幼年期の発達段階の自我(小我)に照応した経済学だと彼女は述べる。幼年期を超えて人間が「自己」を拡張し、発達をとげていく展望を閉ざしているからである。
英国の哲学者にして数学者のバートランド・ラッセルも、『幸福論』の末尾で、こう書いている。「私たちが外部の人々や事物に本物の関心を寄せるようになると、自己とその他の世界との対立は、ことごとく消散する。そういう本物の関心を通して、人は、自己が生命の流れの一部であって、ビリヤードの球のような硬い孤立した実体ではない、ということを実感するようになる。・・・・そのような人は、自分を宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスペクタクルや宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。また自分のあとにくる子孫と自分は本当に別個な存在だと感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見出される」と。32)
大地とコミュニティから切り離され、大都会で孤立した生活をしていると、真実の自己に気づくチャンスが乏しくなる。それゆえ「大我の人」=平和創造の主体を形成する第二の条件は、自己と向きあう空間と時間――プライバシーのための空間と余暇時間を確保することである。結婚後も夫婦は、自己の机、可能ならば個室を確保し、瞑想の時間をもってほしい。その際、とくに留意してほしいことは、自然のなかで自己とむきあう機会を増やしてほしいことである。なぜなら「私たちは、頭ではなく、身体で他の生物たちと・・・つながっている」からだ。33)
なぜ自然のなかで自己と深く対話する場を持つことが必要なのか。人間とは社会的動物である前に自然的動物だからだと、画家の宮迫千鶴さんは述べる。「では土を忘れるとき、私たちの心身はどうなるのか。・・・土を忘れることによって、『いのち』が生から死へ、死から生へと循環しているものだという自然の原理を私たちは忘れてしまう。たとえば雑木林の落ち葉は、はらはらと落ちて土になり、その土は腐葉土として新しい植物を育てるように、私たちの死は新しい世代の生につながっていくのだが、その『いのちのつながり』が見えなくなると、・・・『自己の人生を満たされたものとして眺める』足場がわからなくなるだろう。私たち人間は、社会的動物であると同時に自然的動物でもあるが、この『自己の人生を満たされたものとして眺める』ためには、社会的であるだけでは充分ではなく、むしろどれほど、おのれの中に自然性を見つめたかということが重要になると私は思う。その自然性を見つめるための貴重なメディアが土である。つまり土は『いのちの墓場』であり、同時に『いのちの養育場』なのであるが、そのことを魂の深層で納得している人と、そうでない人の精神の落ち着きには、きっと大きなへだたりがあることだろう」と。34)
自然のなかで自己と深く対話する空間を持つことは、「深我」を取り戻すための重要な一歩ではあるが、それだけでは十分とはいえない。「生きるということは、いのちの移し変えである」という真実を外から観察するにとどまらず、この「いのちの移し変え」のプロセス自体に参画するほうが、はるかに多くのことを学べるからである。
近代資本主義のもとで大都会の生活を送っていると、生き物を「死に物」とみなし、農業と工業と同一視したり、人間を「人材」とみなし、時間をマネーと等置する思考に染められていく。「農業と工業」、「農村と都市」との間の分業、「構想と実行」「生産者と消費者」「料理する人と食べる人」「公害の加害地域と被害地域」「戦争の指揮者と前線で戦う兵士」との固定的な分離は、真実の総体を認識する上での深刻な障害となり、幾多の紛争を生み出す元凶となってきた。
これらすでに形成され、固定されてしまった「分離・分業」を全面的に廃止し、前近代以前の自給自足時代に戻ることは不可能だし、得策でもない。ただしたとえば農業の分野に対象をしぼって、消費者(都市住民)が同時に生産者となる「家庭菜園」促進プログラムを設けることができれば、かりに農業の労働生産性が多少低くなるとしても、「平和な健康人」を形成するうえで大きな役割をはたすと思われる。35)
じっさい欧州の都市近郊にいけば、「農業を趣味とする都市住民」が開いた家庭菜園が延々と続くという情景が常態化している。私のばあい、琵琶湖の西の比良山麓に肥沃な畑を借りて、妻とともに農業体験に励んでいるのであるが、10坪程度の土地であっても丹精こめて耕作すれば、野菜は十分に自給できる。
すべての個人に生存権を保障するには、①生存のために最低限必要な貨幣所得を個人に無条件に保障する「市民所得保障制度」を創設するだけでなく、②個々人に「母なる大地」に回帰する権利も保障し、希望者には食料自給を可能にするだけの農地を与える措置をとるべきであろう。この措置によって、自然の力を健康な家族関係、健康な地域社会づくりのパワーに変えていくことができるだけでなく、市民所得保障制度のための財政負担を減らすことができる。
菜園家族を形成することは、生存権を保障するだけでなく、「人の心を穏やかにし」、「平和な健康人」を形成するうえでも大きな役割をはたすだろう。たとえばフィリピン随一の砂糖プランテーション地帯のネグロス島で、1991年頃からマオイスト(毛沢東主義者)ゲリラの指導した土地闘争を観察してきた大橋成子さんは、こう語っている。「『土地』を獲得してもすぐには農業はできなかった」。最大の理由は、資金や技術不足ではなく、「仕事は賃金をもらって言われたことだけをする」、「困れば地主に借金」という砂糖労働者特有の「依存の文化」であった。「破産した農民は一夜にして労働者になれるが、労働者は一夜にして農民にはなれない」。「労働者の顔」を捨てて、「農民の心」を取り戻すきっかけとなったのは、大地の自然循環に副(そ)い、家族・地域にとって不可欠な必需作物の栽培に切り替えてからであった。野菜を軸とする地域循環重視の有機農業をはじめてから「借金もなくなった。体は疲れるけど、心が穏やかになった。前はよく喧嘩していたお父ちゃんとも、毎日一緒に畑で汗をかくから仲良くなったよ。」「土地は・・・闘争でしか獲得できないかもしれないが、土を作り農を営むということは、心を平和にしなければできない」。「抑圧的なプランテーション型の砂糖栽培から解放され、農民が自己決定権を持つ農業というのは、こんなに平和的なことなのか」と大橋さんは述懐されている。36)「都会の銀行に預金がある安心感とは質の違う、大地に生かされているという根源的な安心感」(きくち ゆみ)が、ここにはあるからであろう。
このような新しいタイプの(伝統的な兼業農民とは異なる)菜園家族の形成は、「あなたいる、ゆえに我あり」の視点にたつ「自然のミレニアム」をささえる新しい人間発達像――小我から深我をへて、大我にいたる新しい人間発達の哲学の形成と普及に大きな役割をはたすであろう。37)
近代経済学の人間観にもとづけば、暴力や戦争などの「悪行」は個人がなした自己決定の所産であるから、個人責任を追及し、処罰すれば、こと足れりとする傾向がある。しかしこのような個人主義的アプローチは、じっさいには「憎悪と暴力の悪循環」を強めるだけである。戦争や環境といった地球的な問題群にとりくむばあい、「木を見て森を見ない」という「個人主義的アプローチ」ではなく、「森から木を見ていく」という「システム・アプローチ」(弁証法的な思考法)をとることが、いかに重要であるかを、環境ジャーナリストの枝広淳子さんは強調している。何か問題がおこっても、「あなたが悪い」「あいつの責任よ」「世間が悪い」「あの出来事のせいだ」と、特定の個人や個別の事象に責任を帰するのではなく、「問題がおこるのは、システム(構造)のせいだ。だから、たとえ人が交代しても構造が同じならば、同じ問題がおこる」と考えることのできる人を増やしていくことが大切なのである。枝広さんは、このような視点から問題を把握できる人を増やすことが、環境問題を解決するうえでも、いかに大切であるかを力説し、「読み、書き、算盤。システム思考」を国民として不可欠の四つの基礎学力と位置づけるキャンペーンを張ろうとされている。
南アフリカではアパルトヘイト犯罪の解決をめざして、デスモンド・ツツ大司教をチーフにして「真実和解委員会」が設立されたが、この委員会が採用したのも、この「システム・アプローチ」であった。数十万人が殺されたこの歴史的悲劇の真実の全側面を明らかにし、二度と悲劇を繰り返させないというのが、「真実和解委員会」の目標とされた。そのために①黒人解放運動の内部で犯された暴力事件や腐敗事件の真相も解明する、②国家権力の命令をうけて拷問や虐殺に加わった者は、「真実を語り」真相究明に協力するならば、免罪するという方針がとられた。「罪を憎んで人を憎まず」という格言があるが、「人を攻撃せずに、問題・システムを攻撃」し、「崩れぬ平和」を作り出していくカギが、システム思考なのである。(38」
人間とは進化の系統樹でいうと、先端部の葉っぱのようなものであるが、個人としての人間は、卵のような存在だともいい換えることができる。生卵は割ると、黄身と白身に分かれる。お皿のうえで、何個かの卵を割ったとしよう。お皿という場が十分に滑らかであれば、黄身の部分は、独立性を保っているが、黄身を支える白身の部分が溶け合って、一つになってしまう。人間も同じであって体と心からできている。体は黄身であり、心が白身の部分に相当すると、生命学者の清水 博さんが表現している。体だけをみていると、個人個人まったく別もので共通の紐帯などないように見えるが、心がちゃんと発達してくると、同じ仲間だということが納得でき、連帯できるようになる。39) そのためには、白身のように滑らかで潤いのある心を育てなければならない。みずみずしい心=白身を創るためには、何が必要なのだろうか。
第一に白身にもっと水分を補給することだ。そのためには、もっと涙を流す習慣を日本人は復活させる必要がある。自らの体験と生活に即した対話を行えば、涙が出てくるのは自然だ。日本人のとくに男は、涙を流すのは女々しいことだ、恥ずかしいことだという風に教えられ、対話のなかで涙の果たす役割を忘れてきた。
二つ目には、対話の前には、母なる地球の大地を両足で踏みつけて踊るダンスや合唱、演劇をすることが効果的である。沖縄の人たちが好む「エイサー」や足を踏み鳴らすスペインのフラメンコ・ダンスなどは、自他分離を克服し、トランス状態に入るうえで効果的だと思う。米国南部のハイランダー民衆学校やその原型となったデンマークの民衆学校では、スクウエア・ダンスと合唱をして、その後に対話のワークショップに移ることが普通だった。当時の民衆学校は"Enliven First, Enlighten Later"(まず生きいきして、ついで賢くなろう、民衆学校の父のクリステン・コルドの言葉)という標語を掲げていた。40)
第三に、白身が混ざりやすくするために「場(お皿)」というインフラの質を高めることも大切だ。大地の祖霊が息づいている沖縄のウタキ〈聖域〉のような場所、あるいは被爆記念日の広島・長崎の地を舞台にしてワークショップを行うことができれば、効果的であろう。
灰谷健次郎さんは、『太陽の子』という小説のなかで登場人物に「むかしはくだらんものに凝ったな・・・人間のくらしに必要なもんとそうでないもんとの区別がつかなんだ。それがわからん人間はわやになるね。沖縄の人はえらいね。そこがちゃんとしとるさかい、人間の中でも上等が多い」と語らせているが、「人間のくらしに必要なもの」とはなんだろうか。この問いに答えるには、科学の智恵・人類の叡智でもって答える以外にない。
その一つのヒントを日系カナダ人のディヴィッド・スズキが与えてくれる。一九九二年にリオ・デジャネイロで開かれた地球サミット総会の席上、子ども代表として演説したセヴァン・カリス・スズキの父親だ。
人類の生命を支える根源的な要素として、古代ギリシア人の強調した四要素――①空気(風)、②水、③土壌(食料)、④火(エネルギー)のほかに、彼は、⑤生物の多様性、⑥愛(家族とコミュニティを担い手とする)という二つの要素をあげ、これら六要素の均衡ある存在が決定的に重要だとしている。41) これらの六要素は、生命の尊厳(人権)の基盤であり、基本的な人間的欲求であり、もっとも重要な「サブシスタンス」(個体とその集団が生命を維持し、本来性を発現し、類として永続しうるための諸条件の総体)42) なのだ。単純に商品と同一視して、市場に任せてはならない。
なぜ人を殺してはいけないのだろうか。新古典派経済学の人間観にたったばあい、「自分が殺されるのは嫌だから、他人を殺してはいけない」という答えに到達するのが精一杯であろう。手の全体を見ず、指先だけからなりたっている狭い・表面的な世界だけを見ているからである。これにたいして、手の全体を観察するナチュラリスト(エコロジスト)は、異なる答えを出すであろう。すなわち「他人を殺すということは、自分を殺すことでもあるから、殺してはいけない。いや殺せるわけがない」と。
結局、自然主体的な唯物論というか、唯物論的なアニミズム(自然の弁証法)にもとづくシステム(弁証法的)思考こそが、平和をつくりだす哲学的基礎なのであろう。マルクスを歌手のジョン・レノン(さらにはガンジー)と結びつけ(マルクス・レノン主義)、「あなたいる、ゆえに我あり」原理の高次復活の道を模索していきたいと思う。
注
1)彼の人となりは、珠玉の自叙伝であるSatish Kumar, No Destination: An Autobiography, 1992, A Resurgence Book を参照。
2)「コミュニティ」とは、コミュニケーションを通じて自他分離の克服をめざそうとする社会空間のことだと定義しておく。
3)デービッド・コーテン『グローバリズムという怪物――人間不在の世界から市民社会の復権へ』、1997年、シュプリンガー東京、333-338ページ。
6)基礎経済科学研究所編『人間発達の経済学』1982年、青木書店、同編『人間発達の政治経済学』1994年、青木書店
7)これまでの到達点への私の批判的コメントは、藤岡 惇「近代個人主義の人間観をどう超えるか」『経済科学通信』78号、1995年4月、60―64ページ、藤岡 惇「エゴからエコへ―「自己」の拡張と人間の発達」『経済科学通信』93号、2000年4月、58―66ページ。
8)『いわくらニューズ』創刊号、2000年12月15日の中島和子さんの論稿を参照。あわせて山尾三省『アニミズムという希望』2000年、野草社、208・236ページも参照されたい。
9)佐治晴夫『宇宙の風に聴くー君たちは、星のかけらだよ』1994年、かたつむり社、44ページ。青木和光『物質の宇宙史』2004年、新日本出版社。
10)小貫雅男・伊藤恵子『森と海を結ぶ菜園家族』04年、人文書院、193ページ。
11)ウイリアム・クラーク『死はなぜ進化したか』97年、三田出版会。田沼靖一『死の起源――遺伝子からの問いかけ』2001年、朝日新聞社、26―27ページ。
12)「36億年の歴史を持つDNAの発する強い力と、たかだか数万年の歴史しか持たない自我との間の葛藤に苦しんでいるのが人間です」(柳澤桂子『意識の進化とDNA』地涌社、1991年、6ページ)
13)ハーヴィー・ダイアモンドほか『ライフスタイル革命――私たちの健康と幸福と地球のために』99年、63・66ページ。村上和雄『サムシング・グレートー大自然の見えざる力』1999年、サンマーク出版、136ページ。
14)諸富祥彦、『生きていくことの意味』PHP新書、01年、53-65ページ。諸富祥彦『どんな時も人生にYESを言う』1999年、大和出版、124-131ページ。
15)フリードリッヒ・エンゲルス「自然弁証法」邦訳『マルクス・エンゲルス全集』、20巻、352・358・492ページ。ただし、訳文の一部を改めた。
16) スチュアート・カウフマン(米沢富美子監訳)『自己組織化と進化の論理』1999年、日本経済新聞社、16~17、24、35ページ
17)シェリングの研究者の西川富雄さんも、私と類似した視点で、「自然を主体にした哲学」を考えておられる。西川富雄『環境哲学への招待――生きている自然を哲学する』2002年、こぶし書房、59、86-89ページ参照。このような自然主体的な唯物論の源流には、梯 明秀さんの独創的な仕事があった。梯 明秀『物質の哲学的概念―社会の自然史的把握のために』1948年、白東書館、梯 明秀『全自然史的過程の思想』1980年、創樹社。関連して山尾三省『アニミズムという希望』2000年、野草社も参照。
18)近藤正輝『ブッダから日蓮まで』2002年、文芸社、48―55ページ。
19)柳澤桂子「宇宙の底で―人格神を超越するまで」『朝日新聞』2005年3月8日朝付け。
20)モーリス・シュワルツ『モリー先生の最終講義』飛鳥新社、1999年、141-142ページ。人間と自然との関係を学生に考えてもらううえで、レオ・バスカーリア(みらい なな訳)『葉っぱのフレディ―いのちの旅 』1998年、童話屋も、含蓄に富んだ文献である。
21)E・F・シューマーハー『スモール イズ ビューティフルー―人間中心の経済学』講談社学術文庫、119-126ページ。
22)その肯定論としては、メアリ・メラー『境界線を破る―エコ・フェミ社会主義に向かって』1993年、新評論、ブレドッティほか(寿福真美監訳)『グローバル・フェミニズム』1999年、青木書店、などが参考になる。
23)Satish Kumar, No Destination: An Autobiography, 1992,pp.79-119.
24)同様の主張として、野村佳子『いのちの世紀を啓く』2000年、一葉社、146ページ。
25)Satish Kumar, You are, Therefore I am: Declaration of Dependence,2003. ただしサティシュは、第3のミレニアムになると新たな「依存宣言」の時代となると書いているが、最初の千年紀との違いを明確にするためにも「相互依存の宣言」の時代に改めたほうがよいと考える。
26)この点、村岡 到『生存権・平等・エコロジー―連帯社会主義へのプロローグ』2003年、白順社も参照。
27)坂本龍一編『非戦――戦争が答えではない』02年、幻冬社
28)ピースフル・トモローズ編『われらの悲しみを平和の一歩に』04年、岩波書店。
29)ガンジー「試練に直面して」マハトマ・ガンジー(森本達雄訳)『私の非暴力1』1970年、みすず書房、152ページ。
30)さしあたり藤岡 惇「持続可能な日本づくりのアジェンダの提案」森岡孝二ほか編『21世紀の経済社会を構想する』2001年、桜井書店。
31)北インドのヒマラヤ山麓の貧しい農村の女たちは、樹木にしがみつくことで森林伐採をやめさせようとするチプコ運動を展開したが、同様の運動が日本でも始まっている。二〇〇四年四月から、沖縄の辺野古地区の沖合いで米軍の海上基地建設のための工事が始まった。工事を阻止するために、非暴力の座り込みをしている九二歳のおばあさんは、「心に海が染(す)めり」と述べ、言葉を続けた。「この海の恵みで子どもたちを育ててきました。宝の海を子孫に手渡すことが私たちの努めです。皆さんの力を貸してください」と。
32)バートランド・ラッセル『幸福論』1991年、岩波文庫、273ページ。
33)田口ランディ『できればムカつかずに生きたい』2000年、新潮社、162ページ。
34)宮迫千鶴「土の力」『読売新聞』96年6月の記事より。
35)「もっと理想的な未来社会にあっては、・・・私の気のおもむくままに、朝(あした)には狩をし、午(ひる)すぎには魚をとり、夕(ゆうべ)には家畜を飼い、食後には批判的評論をすることができる。狩人、漁師、牧者または評論家[という専門職業人]になるという、社会的活動の固定化」は克服される。マルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』邦訳全集版、第3巻、29ページ。一部の訳文を改めた。
36)大橋成子『ネグロス・マイラブ』2005年、めこん、128-129、145-146、243ページ。
37)小貫雅男・伊藤恵子『森と海を結ぶ菜園家族――21世紀の未来社会論』2004年、人文書院、小貫雅男『菜園家族レボリューション』2002年、社会思想社を参照。
38)山本 浩『真実と和解――ネルソン・マンデラ最後の闘い』一九九九年、日本放送出版協会
39)清水 博『場の思想』2003年、東大出版会、21-23・40・50ページ。
40)清水 満『共感する心、表現する身体――美的経験を大切に』98年、新評論、129―137ページ。
41)ディヴィッド・スズキ『生命の聖なるバランス』邦訳2004年、日本教文社
42)戸崎 純・横山正樹『環境を平和学する―持続可能な開発からサブシステンス志向へ」二〇〇三年、法律文化社
補論
最近私は、「唯物論的アニミズムの世界観の創造」という論文を書きました(『唯物論と現代』36号、04年10月)。拙論では、サティシュ・クマールの新著を引用して「我思う、故に我あり」という天動説的な観念論(デ・カルト主義)を離れ、「君あり、故に我あり」という唯物論的な見地に転換することこそが、人間発達の哲学的課題ではないかという問題提起を行いました(サティシュの本は、尾関修さん父子の手で昨年翻訳されました。『君あり、故に我あり』講談社学術文庫で、なかなかの名訳です)。
じつは私も同じような提起を「平和の経済学」という授業の場で行っています。「私(自我)が『いのち』を所有(・・)しているのですか、いのちが私という姿をとって存在(・・)しているのですか」というクイズを出題し、授業のホームページに解答を寄せてもらうのです。第2回クイズは、「あなたのいのちは、あなたの私有財産ですか。それとも誰かから運用を委託された信託財産ですか。後者のばあい、委託したのは誰ですか」というものでした。これら2つのクイズに真剣に答えようとすれば、主流派経済学(および近代主義的に歪められたマルクス経済学)が暗黙のうえで前提している人間観の根本がゆさぶられる結果となるので、学生たちの間で新鮮で深刻な反響を呼びおこしたことでした。
ところで私が若い頃愛読していた思想家のなかに、社会心理学者のエーリッヒ・フロムがいます。ナチスドイツから米国に亡命してきた人です。最近、彼の『生きるということ』(紀伊国屋書店、1977年。原題は、To Have or to Be, 1976)という本を再読する機会がありました。フロム76歳のときの作品ですが、私とほとんど同じ境地に達していることが分かり、感動しました。「我思う、故に我あり」という観念論の立場から「君あり、故に我あり」という唯物論の立場に移行するということは、自他分離・脳の独裁という「唯脳論」的な二元論から脱却し唯物論的一元論に転換することであり、Well-havingの価値観からWell-beingの価値観に転換すること、A・マズローの言葉を借りると「自己実現」を超えて「自己超越」に向かうこと、「小我」の拘りを超えて「大我」の形成をめざすことと同義だからです(マズローに関心のある方は、フレデリーク・ヴィーダマン『魂のプロセスー―自己実現と自己超越を結ぶもの』1999年、コスモス・ライブラリの17・20ページを参照)。
「私(脳に宿る自我)が、体(いのち)・大地・自然を支配し、所有している」というのが近代人の典型的思考だとフロムは述べます。近代人は、「眠ることができない」といわずに「不眠症をもっている」、「幸福な結婚をしている」といわずに「幸福な結婚生活をもっている」、「恋人がいる」というかわりに「恋人をもっている」と考える思考法に染まってきたと彼は論じます(フロム『生きるということ』邦訳、42-43ページ)。本来「もつ=所有する」とは、100%支配することです。自らで作ったものや「死に物」は、たしかに100%支配できるでしょう。しかし恋人や大地というのは、宇宙における命の流れの一部であり、人間(脳)が製作したものではない。支配・所有したいと頭で妄想しても、できない相談です。人間(脳)ができることといえば、彼らと一緒に「生命の舞踏」の輪に加わり、交流し、「君あり、ゆえに我あり」という認識を深めることだけなのです。このことを弁えないなら、愛憎の修羅場地獄の世界に陥るだけでしょう。
しかし自らの非力におびえるあまり、自然や人間まで所有しないと安心できないとする近代人が陥るパニックの症状が、「幼児愛」や「屍体愛」であり、いわゆる「ネクロフィリア」という異常性愛者の性向なのだとフロムは論を進めます。この角度から彼やアリス・ミラー(『魂の殺人』新曜社)が展開するヒットラーやスターリンの精神分析は秀逸です。
社会全体のネクロフィリア(屍体愛)度(関連してサド・マゾの性向)を減らし、非暴力的で健康なバイオフィリア(自然な生命愛)を増やすためには、どうしたらよいのか。「もつ様式」への執着度を減らし、「ある様式」に転換していく以外にないとフロムは論を進めます。水平的なタイプの「君あり、故に我あり」社会に転換していくことだと言い換えてもいいでしょう。このような健康な人間への発達を保障していくには、どのような社会経済的条件が必要なのか。本書でフロムの提案している構想は、私たちの模索してきたことと見事に重なり合っており、びっくりしました。
第1に財貨の「固有価値」の唯物論的探究です。フロムはこう述べています。「何が生命を促進し、何が生命を害するかを検討するために、・・・食品安全局がなしたことをはるかにしのぐ研究を行わなければならない。・・・どの要求が私たちの有機体に起源を発しているのか。どれが文化過程の結果なのか。・・・どれが病理に根ざし、どれが精神的健康に根ざしているのか」の唯物論的研究こそが必要だと(フロム、邦訳、236ページ。中村共一さんの興味深い論文「使用価値の公共性ーー『固有価値』論批判」『社会文化研究』8号、2005年も参照)。
第2に、「正気の消費のための一大教育運動を進め、・・・消費の型を変えて」いこう。これと並行して消費者ボイコットの運動を展開し、企業の社会的責任を問う運動を展開しよう。「正気の消費は、大企業の株主や経営者が企業の利益と発展のみに基づいて生産を決定する権利を、大幅に制限しえたときに、はじめて可能となる」からだとフロムは述べています。
第3に、参加民主主義を徹底していくことです。一つの方法をフロムは提案しています。500名ほどの有権者からなる住民総会を全土に無数に設置せよというのです。地域の有権者全員が参加できる住民総会を適宜開き、十分な情報を与え、深い討論を体験したうえで、政治課題について投票するようにせよというのです。スイス古来の住民総会は有名ですが、かりに数十万箇所で開かれても、IT技術を使うと、その議論と投票の結果は、すぐに集計できるでしょうし、民主主義が浅薄な人気投票に堕すことを防げるでしょう。その結果、国民はもっと深い政治認識を我が物にし、徹底民主主義が実践できるだろうと、フロムは論じているのです(邦訳、242ページ)。
第4に、生存権保障の鍵として、「年間保証収入」という制度の導入をフロムは提案しています。小沢修司さんなどが紹介されている「基礎所得」(あるいは「市民所得」)保障と同じ構想なのですが、フロムは、すでに1955年出版の『正気の社会』の段階で提案していたのです(ただし彼には「家庭菜園」という形での大地保障=自然との再結合の提案が欠けているのが残念ですが)。彼はこう書いています。この制度は、「人間は『社会への義務』を果たすかどうかにかかわりなく、生きるための無条件の権利をもつ、という規範」のメッセージである。「ペットには認めながら、同じ人間には認めてこなかった権利」が、ここで公認されるだろう。「個人的自由の領域は、このような制度によって途方もなく拡大される。ほかの人間(たとえば親・夫・社長)に経済的に依存している人でも、もはや飢えの脅しに屈服することを強いられないし、天賦の才能を持っていて、違った人生を送る準備をしたいと思う人物も、しばらくある程度の貧しい生活を忍ぶ意志さえあれば、そうすることができる」ようになるだろうと(邦訳、251ページ)。
最後に、「もつという様式」を進んで放棄するための文化的精神的な基盤づくりの問題です。「自己および同胞の十全な成長を、生の至高の目的」とし、「自分がすべての生命と一体であることを知り、その結果、自然を征服し、・・・破壊するという目標を捨て、自然を理解し、自然と協力するように努める」ように彼は説きます。そのためには、近代人の間で自然観の革命を引き起こし、「神なき宗教性」に目覚めることが必要だと彼は述べ、こう続けます。「宗派もなく、教義も制度もないヒューマニズム的『宗教性』、・・・仏陀からマルクスにいたる非有神論的『宗教性』」を培かっていく必要があると(邦訳、265ページ)。
「宗教性」の原語はスピリチュアリティでしょうか。この指摘は、「唯物論的アニミズムの世界観の構築」を説く私の見地と通底しているので、感動しました。まさに「エコロジー革命」出番の年を迎えています。憲法9条を宮沢賢治の言葉で語れるような「人間発達の経済学」を形作っていきたいものです。
(『唯物論と現代』36号、2005年11月 に掲載したものを加筆補正したもの)